恥の多い人生の只中 仄暗い道を往く

自分を見つめると死にそうになるが、逸らし続けても死にそうな気配がしたので

結局自分が安心したいだけ

年末である。
またこの季節だ。 

goi-san.hatenablog.co

今日、改めて実家には当分顔を見せまいと思った出来事があった。

母が父を偵察によこしたのである。
父はまあ心配はしているのだろうが、あんなに根掘り葉掘り聞きだそうとする人ではない。

たまに父から変わりはないか、等の簡単な電話が来ていたが(これも今思うと自発的なものかは不明だが)
今回のは質が違う。絶対背後に母がいる。
父はなんとしても現状に関する情報を聞き出してこいという使命を負ったのだろう。

そんなものを感じ取ったため、
・正月もそちらに顔を出すことはないということ
・偵察のようなことはやめてくれ
ということを伝えた。

本当に、実家界隈と接触すると体調が悪くなるし
なぜか涙が出てくる。

今は自分の自立で精いっぱいなので、実家にかまっている場合ではない。


今までのいろいろを思うに、母があれやこれや聞き出したところで正論や社会通念の型前提の接触しかないだろうし、父は思うところがあっても自分の感情を的確に表現できない性質なので(このあたりは父の実父-これもまた発達障害傾向が強かった-との確執から来るものだろうと思う)
わたしに対してできることはむしろなにも接触してこないことなのだが、そんなところには思い至るまい。

本人のためとか言いながら、結局自分が安心したいだけ、という案件が多すぎる。

気づきばかり

自分の発達障害を疑い始めてから約1年が経った。
当初の予定ではとっくにフルタイムで働いていたはずだったのだが、自分を見つめたりした結果ある程度の精神的乱高下があり、それに伴い発達障害特性の出現を実感するなどまあいろいろあったりしたわけだが

それにしてもよくもまあここまで自分のことをわからないまま40年近く生きてきたな
というのが正直なところである。

発達障害者はメタ認知機能が弱い、というのはよく見る言説なのであるが
まあそういうことなのだろう。
メタ認知とは)

www2.nara-edu.ac.jp

 この1年でさまざまな本を読んだが、一番発達障害の理解に役立ったなと思うのはこの書籍である。

大人の発達障害を診るということ: 診断や対応に迷う症例から考える

大人の発達障害を診るということ: 診断や対応に迷う症例から考える

 

発達障害専門外の精神科医に向けて書かれた本ではあるものの、専門用語はほとんど出てこないため滞りなく読める。
発達障害の表に見える部分だけを代表的な例として拾ったような大人の発達障害本というのは実はあまり役に立たず(平均的な日本人像が自分に当てはまらないのと同じように)、実はこの本のように根本的、本質的なまなざし+症例集というのが、特にグレーゾーンを含んだ大人の発達障害への理解には必要なのではと思う。

これを読んだのが発達障害の診断を受けた頃で(近くの図書館の「大人 発達障害」で検索したらヒットした)、ちょうど精神状態悪化に付随してADHD特性がゴリゴリ出ているタイミングだったのも実感を伴った理解ができたという点でよかったのだろうと思う。もしもこの本を読んでいなかったら、"発達障害"をいうものをもっとスティグマ化してしまっていたかもしれない。

スティグマと言えば、なんとなく、発達障害というものが世間に認知されるにつれて「発達障害者への偏見や差別」が生まれるのはこれからなのでは、という気がしている。
今私は障害者雇用はやめて一般枠で求職しているわけだが、偏見や差別が大きくなればなるほど「定型発達者のようにふるまうこと」に多くのエネルギーを費やさねばならなくなるだろう。そうならないためにも是非普通の人にも上記の本を読んで「すべての人間には発達障害的要素がある」というこを知ってほしいのだが。

ところで、今日見かけた精神科医の方のツイート、最近考えていたことを後押ししてくれる内容だった。

 このあたりを意識して行動の取捨選択を行うのがよいのだろうと思う。

「ひきこもり」への雑感

何回も鬱を繰り返している身としては、ひきこもりにはいつなってもおかしくないというのが実感である。
なぜひきこもりにならなかったのかというと、それはまだ世間にある程度の希望を持てていたからなのだろう。

鬱の真っ最中ではなにひとつ希望を持てないものだが、徐々に回復してくると自然と気持ちが外に向かうものである。
その時、気持ち的に、あるいは身体的に実際出ていけるかいけないか。
それを分けるのが希望の有無、もしくは多寡なのでは。

それは気持ちや体調を崩す前の体験だったり、
崩した後のまわり(特に家族)の理解の度合いであったり、
社会復帰に対するハードルの高さであったり、
そのあたりに左右されるのだろうと思うけれど

日本において社会復帰へのハードルは年齢を重ねるほど高くなるため、そりゃあ親殺し子殺しが起こるわ…と、そうなってしまうのである(思考の飛躍)。

自分の場合は、それまでの社会生活においてトラウマになるようなひどい体験は少なく、両親は精神科への通院を反対するわけでもなく(かと言って偏見がないわけではないが)、精神的な回復とともに徐々に活動するようになっていた。
今思えば自動車学校に運転免許を取りに行ったり、親戚の店の手伝いをしたり、職業訓練に通って資格を取ったり(それぞれ違う鬱の時の話)、段階的に外に出るようにしており、生活のペースを整えることができたのがよかったのだろうと思う。
低いハードルから始めることである程度自分に自信がつき、また就業しようという気持ちにもなったのである。まあ、自分の発達障害を知らないまま特攻を続けたため何度も鬱を繰り返す羽目になるわけだが。

それでも、この20年の間にこれ以上行くと鬱になるなという予感と、この環境は自分に合わないというセンサーの感度だけは格段に良くなり、鬱初心者の頃と比べると鬱をこじらせることは少なくなってきていた。鬱の原因はわからないながらも学習しているのである。

今年になって晴れて鬱の根本に発達障害があると判明したことで、もしかしたら鬱そのものを回避できるのではないかという期待を持っている。が、そんなに簡単なものではないだろうと思う。
今までの鬱の中で一番ひどかったのは実は2回目の鬱で、「また鬱になってしまった」「これからも同じことを繰り返す人生なのだ」という絶望が加わったため、まあ積極的に自殺しようとしたよね。計画性なさすぎて失敗したけど。今は別に鬱ではないけれど、やはりあの時死んでれば楽だったのになというのはいつも思っていることではある。
しかし生まれてしまったものはしょうがない、という諦めとともにあるのだな。

また、それに加えてもういい年なんだわ…
これから先、どんどんできる仕事が少なくなっていくことを考えると、次失敗したときが本当にやばい、というのが見える。見えすぎる。
結局は社会や世間がこちらを拒絶するから防御のためにひきこもるわけで。
もしくは家族への消極的な復讐でもあるのかもなとも思う。

というわけで、もうちょっと、世間に寛容さというものがあればと思うのだが、すっかり貧しくなってしまったこの国は多分それとは逆の方向に進むのだろうな。などと思っている。

同じふりだしに戻ったわけではないが

発達障害と診断されてよかったことのひとつに「以前と比べて、思考がおなじところをぐるぐるまわらなくなった」というのがあるんだけど、それはなんかよくわからない違和感とか不安とか怒りの根源にあるものに名前を付けてもらえたからだろうと思う。

ただ、私の場合診断がすぐついた(診察2回目くらいで薬処方されそうになった記憶がある)のって20年近く鬱と緩解を繰り返してきた実績があるし受診当時も中程度の鬱状態だったからで(多分)、それがない時に診断されたかというとどうだろう。

今の発達障害に対する支援や福祉は「診断ありき」なので、あまり発達障害自体で困っているという自覚がない(実際は困ったことが起きている)、特性の軽い発達障害者は二次障害がない限り診断が下りないのだろうか。個人的には鬱になる前と後で予後が全然変わるので、こういうグレーゾーンっぽい人にも困ってる人には診断が下りればいいと思うんだけど、まあそれは程度問題になってしまうのだろうか。

バリバリに発達特性のある人に対しては、障害年金ももらえる確率が高くて障害者雇用しか選択肢がない=迷わない のが羨ましい、みたいな気持ちがあるんだけど
選択肢があるだけありがたいと思え、みたいな声(脳内)も同時に聞こえるわけで。

ところで、障害者手帳を取得したので、複数の障害者求人に応募などしてみむとしたがまさかの書類審査落ち。
正社員とか契約社員(無期雇用転換あり)とかそのあたりを狙ったのだが、ネットで検索したところどうやらそのあたりは身体障碍者枠であり、精神はお呼びでない感じらしい。なんだそりゃ。
というようなことをいつもの心理士さんに話したら、そこまで露骨ではないけどおおむねそういう傾向だそうです(ネット上の表現を柔らかくしただけでは)。そして、発達障害という名称は認知されてきたものの、相変わらず実態は不明のため、採用する企業も及び腰になってしまうことが多いと。
(精神、最低時給のバイトとかそういうやつなら全然受かるっぽいです)

重ねてなんだそりゃ。

このあたりは都会ではもっと選択肢もあるのだろうが、まあ地方はそんなもんらしい。
もはや定型前提の社会にしがみつくしかないのだろうか、という諦めを得た。
というのがここのところの出来事である。

定型発達の人ですら年齢が上がると応募できる求人が減るのに、なんだここは、地獄か

こんな要望を出したという覚書

NHKが今月末からまた発達障害キャンペーンをやるというので見に行ったところ取り上げてほしいテーマ・意見を募集中ということだったので投稿してみた。もっと普通っぽく見える人の適応の仕方を見たい。以下その内容。

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20歳頃から鬱や適応障害を繰り返し発症し、そのたびに就退職も繰り返してきました。去年のNHK発達障害キャンペーン中に偶然番組を拝見し、これは自分にも当てはまるのではと医療機関を受診。今年2月にADHD(ASD傾向あり)の診断が下り今に至ります。

診断が下りてからは、発達障害に対する理解を深めようと様々な書籍を読み、またテレビ等の特集も注意して見るようになりました。そこで気になったのが、特にテレビの発信する発達障害者のイメージが画一的であるということです。「発達の凸凹があり社会人生活を送るには難しいが、一芸に秀でている人」もしくは「社会人どころか生活もままならない人」というステロタイプが出来上がりつつあるように感じます。

バリ層ギリ層ムリ層という発達障害スラングがありますが、私自身環境や自分の体調によってその3層を行ったり来たりしており、よくできた概念と思っています。

hattatu-matome.ldblog.jp

バリ状態でエネルギーを減らし続けるとギリ層になり、エネルギーが枯渇すると鬱状態(ムリ)になるというのが私の場合で、このあたりの出方も人によって異なるのだろうと推測します。

前述したステロタイプはバリ層とムリ層に当たると思うのですが、ここは是非社会生活を安定して送る事が出来ている人と周囲の環境(正社員として就労を5年以上継続できている人とその職場など)にスポットを当てていただきたいと思います。ギリ層は発達障害者の中でマスの部分ですが、その多くが安定した就労を目標にしているように思います。
特に大人の発達障害に関しては、都会と地方で受けられる医療・福祉・当事者間の交流・その他サポート何もかもが違い(この居住地格差も問題であると思っています)、マスメディアの力が必要とされているのではと感じます。非当事者に対しての情報発信と同じくらい当事者に向けての情報発信もしていただけたら幸いです。

障害者手帳の取得

障害者手帳の申請をしてから2か月ほどで役場に取りに来いという通知が来た。
受け取った手帳を見てみると、どうやら申請した日から私は障害者になっていたらしい。

子供のころから発覚していたならともかく、この歳まで健常者としてやってきて(やれてないが)、手帳の有無だけで障害者か否かが決まるというのはなんとも滑稽な話であることよさすがリターンに関しては申請主義国家などと思う。

そこまで発達特性はひどくないのだが、とはいえ知能は立派に凸凹しているため失敗体験の連続である。その積み重ねにより、最近では人間と関わりあうこと自体が嫌になっている。観念の中で生きていきたい、というような願望がずいぶん昔からあったが、多分そういうことなのだろうと思う。文字情報のみなら人間と付き合ってもよい。

私の家は長所を伸ばすではなく苦手を克服しろという教育方針だったため、向いていないことを習得することが成長だと思い込んでいたし、そのためにだいぶ時間も機会も浪費したように思う。

つくづく、親とわたしの相性が悪い。ひいては運が悪い。

発達障害の診断を受ける動機のひとつに、発達障害者に普通さらには優等生であることを強要しやがってくそ野郎がっていうような気持ちを親に投げつけたい気持ちが確かにあったななどと思う。親の理解の及ばない生き物ではあっただろうが(実際、何を考えているかわからないとか言われる)、それでもこちらに何が起こっているか、どうすればうまくいくかを探るという姿勢は皆無だった。本当に運が悪い。

発達障害は親の育て方が原因ではないが、二次障害は周りの社会が作るものだろう。子供にとっての社会で大きな割合を占めるのが親。

yomidr.yomiuri.co.jp

ところが、次の三つの育て方では、二次障害が起きやすくなります。わが国の多くの親御さんが「普通」と思っている育て方、苦手克服のために訓練を過剰に行う育て方、本人の意志に任せ過ぎる育て方。この三つです。

まんまこの三つの育て方をされたので、今こうして立派な二次障害がひどい発達障害者が出来上がっているわけだが、親はそんなことに気づいてもいないのだろうと思う。
昔遺書を書いたとき(当然ながらその自殺は失敗に終わったが)、親に対して「あなたたちの育て方は間違っていなかった」と書いた。それはある意味本心だったし、自殺することへのうしろめたさから来るものでもあった。

が、今なら全く正反対のことを書くように思う。死ぬまで自分のことで苦しめばいいと思う。

さて、今回散々出てきた「親」という言葉だが、こと教育や育て方、となると思い浮かぶのは母親のことばかりである。父親は仕事に行って帰ってくると自分の世界に引きこもっているように見えた。父親は完全に機能不全家庭出身なので、機能不全家庭の再生産というわけである。親の問題が代々持ち越される。このあたりも運が悪い。

つまるところ、障害の受容的なこととは対照的に、親との関係については一向に気持ちの整理がついていないということだ。そのうちこのあたりの気持ちにも変化が起こるのだろうか。

精神科医にすべてを話したことがない

自分の悪癖や数々の悪行(だと自分で判断していること)については初診で話さないとダメだな
ということをこの頃よく思っている。

何回も会ううちに少しのズレや違和感みたいなものが育ったり、また、治療の効果みたいなものもよくわからなかったりすると、どうも徐々に信頼レベルが下がってしまうので

わりと法に抵触する感じの悪癖があったりしてもしかしたらこれは衝動性と関わるのかもしれないけど、思い付きは衝動的なのかもしれないけれどそこから実行可能かいろいろ検証したりするのでその辺はばっちり計画的なわけで、まあ、そんな感じのこと。暴言も吐いたりするしな…

自分を見つめれば見つめるほど人間的によろしくないので、やはりあの時にうまく死んでしまっていたらよかったのになと思っている。あれは本当に衝動的だったから。もう少しあの時に計画性を発揮できたらよかった。

このあたりのことを主治医に話す日は来るのだろうか。
治療なるものに希望を持てないと難しいだろう。