恥の多い人生の只中 仄暗い道を往く

自分を見つめると死にそうになるが、逸らし続けても死にそうな気配がしたので

「ひきこもり」への雑感

何回も鬱を繰り返している身としては、ひきこもりにはいつなってもおかしくないというのが実感である。
なぜひきこもりにならなかったのかというと、それはまだ世間にある程度の希望を持てていたからなのだろう。

鬱の真っ最中ではなにひとつ希望を持てないものだが、徐々に回復してくると自然と気持ちが外に向かうものである。
その時、気持ち的に、あるいは身体的に実際出ていけるかいけないか。
それを分けるのが希望の有無、もしくは多寡なのでは。

それは気持ちや体調を崩す前の体験だったり、
崩した後のまわり(特に家族)の理解の度合いであったり、
社会復帰に対するハードルの高さであったり、
そのあたりに左右されるのだろうと思うけれど

日本において社会復帰へのハードルは年齢を重ねるほど高くなるため、そりゃあ親殺し子殺しが起こるわ…と、そうなってしまうのである(思考の飛躍)。

自分の場合は、それまでの社会生活においてトラウマになるようなひどい体験は少なく、両親は精神科への通院を反対するわけでもなく(かと言って偏見がないわけではないが)、精神的な回復とともに徐々に活動するようになっていた。
今思えば自動車学校に運転免許を取りに行ったり、親戚の店の手伝いをしたり、職業訓練に通って資格を取ったり(それぞれ違う鬱の時の話)、段階的に外に出るようにしており、生活のペースを整えることができたのがよかったのだろうと思う。
低いハードルから始めることである程度自分に自信がつき、また就業しようという気持ちにもなったのである。まあ、自分の発達障害を知らないまま特攻を続けたため何度も鬱を繰り返す羽目になるわけだが。

それでも、この20年の間にこれ以上行くと鬱になるなという予感と、この環境は自分に合わないというセンサーの感度だけは格段に良くなり、鬱初心者の頃と比べると鬱をこじらせることは少なくなってきていた。鬱の原因はわからないながらも学習しているのである。

今年になって晴れて鬱の根本に発達障害があると判明したことで、もしかしたら鬱そのものを回避できるのではないかという期待を持っている。が、そんなに簡単なものではないだろうと思う。
今までの鬱の中で一番ひどかったのは実は2回目の鬱で、「また鬱になってしまった」「これからも同じことを繰り返す人生なのだ」という絶望が加わったため、まあ積極的に自殺しようとしたよね。計画性なさすぎて失敗したけど。今は別に鬱ではないけれど、やはりあの時死んでれば楽だったのになというのはいつも思っていることではある。
しかし生まれてしまったものはしょうがない、という諦めとともにあるのだな。

また、それに加えてもういい年なんだわ…
これから先、どんどんできる仕事が少なくなっていくことを考えると、次失敗したときが本当にやばい、というのが見える。見えすぎる。
結局は社会や世間がこちらを拒絶するから防御のためにひきこもるわけで。
もしくは家族への消極的な復讐でもあるのかもなとも思う。

というわけで、もうちょっと、世間に寛容さというものがあればと思うのだが、すっかり貧しくなってしまったこの国は多分それとは逆の方向に進むのだろうな。などと思っている。