恥の多い人生の只中 仄暗い道を往く

自分を見つめると死にそうになるが、逸らし続けても死にそうな気配がしたので

正月実家に帰りたくない⑤

前回↓からの続き。 

goi-san.hatenablog.com

父は、約束の時間通りに来た。 

父とはほどんとまともに話したことがないが、特に話さなくなったきっかけがあった。私は好きなアニメをずっと録画してビデオにコレクションしていたのだが、よりによって最終回を録画したものを父に上書きされてしまったのだ。しかもそれを知ったのが「〇〇(私)のビデオを間違って上書きしてしまった」という、母宛のホワイトボードのメッセージであった(父は交代勤務の仕事をしていたため、伝達事項は居間のホワイトボードに書いていた)。

ボード上で私に謝るでもなく、代わりに謝ることを母に頼むでもなく、はたまた直接謝るでもなく、ただ「上書きしてしまった」と書かれている。それを見たときは、私のお気に入りのアニメがもう二度と見られなくなること(当時DVD-BOX的な概念などない)、ほぼ1年間にわたるコレクションがすべて無に帰したこと、それに対し父がさも何も起きていないかのような対応をしたことで多分得も言われぬような気持ちになったのではないかと思う。ほぼ怒りと落胆だろうけれど、昔すぎることと思い出したくもないこととで当時の気持ちはうまく思い出せない。 

とにかくそれから、私は父親のことを無視するようになった。最初は向こうから謝るまでは、と思っていたのだが、一向にその気配がない。父も自分が無視されていることはわかっているはずなのになぜ無視されているのか聞いてこない。しばらくして母親に一度軽く窘められた記憶があるが、その時もなぜ私がこのような行動を取っているのか聞かれなかった。「思春期の女の子はみんな父親に対してそうだから」放っておけば時間が解決すると考えたのではないか。しかし、思春期ゆえに無視をしていたのではなかった私は家を出るまでずっと父親を無視し続けた。結局家族の中で誰も私の行動の理由を聞いてはこなかった。最初のうちは痛んでいた心も、家を出るころには一部が死んでいたようだ。何も感じなくなっていた。

 今思えばすごいことなのだが、それでも父はずっと変わらない態度だったように思う。そのうち簡単な受け答え程度はするようになり、私が鬱で実家に戻った時は気晴らしに天文台に連れて行ってくれたりした(と言っても会話はないが)。結婚してからは夫を交えてならなんとなく会話をするようにもなった。無視事件が始まってから20年弱である。

 

 父には先日母から言われたこと、母に対して思っていること(正月実家に帰りたくない③の箇条書き部分)を話した。犬立ち入り禁止の件も「それなりの対応になる」発言も父は知らなかったようだ。

そして今現在私が母に非常に大きなストレスを感じていることと再び精神科に通っていることも話し、しばらく母親とは距離を置きたいので正月実家には帰らないと伝えた。とにかく私の精神状態がよろしくないということを強調した。実際はストレスによる鬱状態とかそういうので精神科に行っているわけではないのだが、そうでもしないと母の性格だと直接家に来ることも考えられるからだ。

理路整然となど話せるわけもなく涙と鼻水垂れ流しながらだし、夫から頻繁なフォローがあってやっと、ではあったが、もしかしたら親に自分の気持ちを正直に話したのはこれが初めてかもしれない。とにかく大仕事であった。(そういえばそもそも、あの箇条書きは父訪問に際して自分の気持ちを整理するために作成したメモ書きであった) 

父が来る前に夫から「自分の奥さん(つまり私の母)のことを悪く言われていい気がするはずがないから、お母さんに対する言葉はキツいものを使わない方がいい」と言われてはいたのだが、箇条書きのあたりを次から次へと思い出しながら話しているうちにどんどん不満のようなものが噴出してきて、私は途中から母のことを「あの人」呼ばわりしたりしていた。それでも父は最後までこちらの話を聞いてくれた。困っているのだか面倒くさいと思っているのだかよくわからない、いつもと変わらない様子である。そして折を見て母に話してくれるということであった。 

父に話したことで気持ちはかなり楽になったが、日がたつとまたじわじわ不安になってきて、万が一に備えて母からの着信を拒否設定したりもした。しかしそのまま何事もなく正月を迎えることができた。向こうがどういうことになっているのかは父とも連絡を取っていないので不明。 

とりあえず一時的ではあるが、ある程度の精神的負担を軽減することに成功したと言えよう。ひとまず家族関係はお休み。

ちなみに、私の視点から話すと母がどうしても悪いように見えるのだが、多分普通に見たらおかしいのは私の方だろう。精神科に相談に行っているのはそのためである。

正月実家に帰りたくない④

前回↓からの続き。

goi-san.hatenablog.com

すでに記憶は遠くなりにけりな年末のことである。
しんどい母から逃げる!!: いったん親のせいにしてみたら案外うまくいった』を読んであれこれ思い出して怒りを覚えたりげんなりしたりいろんな感情が綯い交ぜになっている状態だが、とにかく正月は刻一刻と近づいているわけで。帰省は義務じゃないし帰ってこないなら覚えてろよという趣旨の母の発言に傷つき幻滅し今まで自分は何を見ていたのかと思わずにはいられなかったが、無断でバックレようものならあることないこと言って我々を貶める(確実に夫を含めてdisってくる。なぜなら夫は私を説得して正しい道(実家に行くこと)を選択させなければならない人だから)のは目に見えているので、だがどうしていいかわからず、とりあえず夫に「正月実家に帰りたくない」とぼそぼそ泣きながら訴えた。
ここ数日私がまた鬱々としている様子に気づいていた夫は、すぐ私の父に連絡を取ってくれたらしく夕方父が来ることになった。


さて、初登場(多分)の父である。
この人は正直得体の知れない人だ。家族の誰とも交流しているように見えない。かといって、外でどうこうというのでもない。仕事に行って帰ってメシフロしてあとはテレビや漫画を見てネル、を何十年も繰り返している(ように私からは見える)人だ。
なぜ私の実家が母親の価値観しかないのかと言えば、父親はほぼ発言をしない。元々私との会話もないが、夫が父親に何か問いかけるとなぜか母がそれに答える(父は答えかけているが母がそれを遮る)。それでも何も不満がないかのように見える。
ああ、今思ったが、私の実家は母の「私がいないとダメなんだ」に支配されているのかもしれない。出来の良い兄が進学で出て行ったあとは特に。とにかく父親は、物理的に存在はしているがただそれだけなのだった。性格は温厚で多分人当りもいいのだが、自分から進んではっきり意見を述べているところをほぼ見たことがない。そういえば父に怒られた記憶もない。よくあの過干渉の母親と付き合っていられると思うものだが、相性はいいのかもしれない。


うちの家族はどこかおかしいと気づいたのはここ数年のうちだが、それでも母と兄だけがまだしあわせ家族ごっこを続けているように見える(父は積極的に参加もせず否定もせずそこにいるだけ)。だがしかし、もしかしたら私だけがおかしいという可能性も十分にあり得るのだ。
つづく。

正月実家に帰りたくない③

 

前回↓からの続き。話は年末に戻る。

goi-san.hatenablog.com 『しんどい母から逃げる!!: いったん親のせいにしてみたら案外うまくいった』は一気に読んだ。著者の母親に比べると私の母はマイルド(微毒という言い方をするらしい)だが、著者と私の(母親に対する)行動の変遷は驚くほど似ていた。コミックだけあって各段階の心の動きまでもがわかりやすくイラスト化されていてこれは本当に腑に落ちた。読んでいてしんどいにはしんどいが、頭の中が少しずつ整理されていくのだ。

とりあえず、この本を読むことで「堂々と母親の悪口を言ってもいいのだ」と気づいた私は母に対する不満を片っ端から書き上げた。なぜ母なのかというと、正月実家に帰りたくない理由が“母がいるから”なのだ

私から見た母親は、以下のとおりである。

・自分の「常識」が常に正しいと思っている
・相手がどんな状況だろうと正論でぶん殴ってくる
・兄弟や近所、あらゆるものと比べて最終的に自分が優越感を持ちたい
・私が選択した事物すべてに品定めするような視線
 ・以前の居住地に招待した時の態度(もてなしに対しまったく楽しそうなそぶりを見せない)
 ・夫の仕事に対する態度(夫は自営。会社勤めの正社員じゃないとまともじゃない、というようなことを節々に滲ませる)
・世間体、肩書を重視し本質を見ようとしない、もしくは気づけない
・いつまでも「優等生を育てた母」でいたい。だから子供が世間的なモデルコースから外れることを恐れているのでは
・高卒であることにコンプレックスがあるっぽい。うちは両親とも高卒(父は大学中退)

直接母に言えない。普段言いたいことの10分の1も言っていない
・小さい頃からの刷り込みで「母の意向に逆らうとよくないことが起こる」と学習している
・気分で叱る。言うことが変わるので混乱する
・自分の言った考えが母の気に入らないことだと「ほんとうにかわいくない子だね」と言われる。とにかく「あんたはかわいくない」とさんざん言われた
・「うちはお金がないから」「あの人はあんないい学校に行っているのにあんな進路を選んで馬鹿だ」「(外で肉体労働をする人に対して)あの人は頑張らなかったからあんな仕事についている」と小さいころから聞かされてきたので、ほしいものをほしい、やりたいことをやりたいと言ってはいけないといつの間にか思っていた。勉強はできる方で、特に義務教育中はテストで誤答することが少なかったため、むしろやりたくないことをやらなければならない(苦手なところを克服しなければならない)と思っていた
・母が苛立っている時の顔と声の出し方で身がすくむ。ぶってくる直前の顔。その顔でまくしたてるように正論のようなものを並べ立てられるとうまく考えられなくなる。後日思いなおすとそれはおかしいという部分も出てくるのだが、話を蒸し返すのも嫌だしそもそもこちらの言っていることを多分理解しようとしないため反論を諦める
・うちには母親以外の価値観が存在しないし誰も人に寄り添うことができない。なので誰にも相談できない
・兄は母の手先。子供のころ家から閉め出された私を一緒になって締め出しにかかった。鬱になって不安定だった頃の私を母と一緒に正論でぶん殴ってきた。兄は兄でいろいろ苦労も努力もしているんだろうが母の望むコースを見事に歩んでいる(ように見える)ため、相談しようという気は起らない。そもそも母は兄に対して非常に甘いため、いい母親だと思っているのではないだろうかとすら思う

過保護、過干渉
・実家ビビり犬立ち入り禁止の件
・こちらが以前「ほかの犬にもある程度慣れさせた方がいい」と言ったとき「この子はこれでいいの」と取り付く島もなかった。我が家の犬と行った日も、うちの犬は犬としては普通の行動(実家ビビり犬に寄って行く、実家犬のおもちゃで遊ぶ)をとっている。母親も実家ビビり犬を守る様子はなし。にも関わらずこちらにすべて非があるかのように一方的に立ち入り禁止宣言するのはいかがなものか。
・こちらは犬も含め家族と認識している。というか、犬がいてくれてやっと実家に帰れる。そのくらい以前から実家は心が休まらないところ。「拒絶されたと感じた」と伝えたら「それはごめんね」と口だけは謝るが、ケージに入れるなどの譲歩案(こちらから何度も提案している)は受け付けず。
・先代実家犬も含め、犬への接し方を見ていると自分の育てられ方を客観的に見ざるを得なくなり嫌悪感を憶える
・実家から出るたびに数年後には鬱になって実家で療養せざるを得なくなったが、それでも私にとって実家は安心できる場所ではなかった

精神科案件
・犬立ち入り禁止宣言をされてから母親を受け入れられなくなった。前回会ってさらに話した時から精神的に余裕がない。
・現在通院中。中程度の抑うつ状態と言われている。
発達障害の可能性。自己肯定感が極端に低い。
 ・勉強はできているから、と他のことは見過ごされていた。学校と同じ。
 ・片づけられないのは昔からなのに、どうしたら片づけられるのかを考えてくれたことが一度もない。ただ大声で罵るだけ
 ・先代実家犬(癌で若死にした)が前居住地に来た時毛ヅヤが悪く毛も抜けひどく痩せていたのでなにかの病気なのでは?と訊いたが、母はうちの先代犬が太いばかり言っていた

「家族」とは条件付きのものなのか
・そもそも正月に実家に帰るのは義務ではない
 ・「あなたがそうならこちらも付き合い方を考えます」発言 
 ・いつまでも逃げるな(なにから?)
 ・いつまでも娘だと思っている(といいながら泣く)

書いたのを読み返すうちにあれもこれもとまた思い浮かぶがきりがないのでこの程度で。
私の対人関係の悩みのひとつに「やさしくなれない(寛容さ、共感といったものを持てない)」というのがあるのだが、果たして私は生まれ育った家庭でそれらを学ぶ機会はあったのだろうかとふと思ったりもするのであった。

とっくに年は明けたがまだ続く

正月実家に帰りたくない②

前回↓からの続き。

goi-san.hatenablog.com


そんなこんなであれこれ検索してたまたまこの記事がヒットした。

wotopi.jp

そこから関連リンクをたどって以下の記事を。全部夢中で読んだ。

wotopi.jp
wotopi.jp


毒親という言葉は聞いたことがあったし、私の母は過保護で過干渉だとは思っていたが、毒親カテゴリの中にそれらがあると思っていなかった。しかし三つ目の記事の中に「親の呪縛から逃れるには……」という項目があってハッとした。
初回のカウンセリング時、過去の様々なあれこれを思い出しながら話した後、最後に私は「とにかく母にかけられた呪いのようなものを解きたい」という言い方をしたのだ。これにより、私の母は毒親なのではないかという疑惑が生まれたのである。

ただ、いろいろ思い悩みながらも近くの人に相談できないのが家族・特に母親の問題。私の母は外からは完全に良妻賢母に見えるだろう。以前、もやもやしていることを友人に話したことがあったが「しっかりしてていいお母さんじゃん」で終わってしまった。兄ですらそう思っているかもしれない。今すぐこのわだかまりを解消したいが次の診察は来年だ。答えを知っていそうな人を求めてまたネットの海をうろうろする。そこで目にしたのが『母がしんどい』というコミックの存在である。 

母がしんどい

母がしんどい

 

 

タイトルのインパクトが強いこともあって、多分前にもなにかでちらっとリンクを見かけたことのある本だ。これは毒親の理解によさそうだぞと思ったのだが、いや待て、今私が欲しいのは毒親を理解した上での対処法である。と、この作者/田房永子氏の著書一覧に『しんどい母から逃げる!! ~いったん親のせいにしてみたら案外うまくいった~』なるものが。

 これなのでは!?と商品説明やレビューを読んでみると、実際に著書がたどった解毒の道のりが書かれてているとのこと。
即買いしました。電子書籍、便利。ノータイムで読める。今まで省スペースや布団の中でもごろごろ読めることのみが利点だと思っていた。

 

 

…というの(前々段落まで)を数日前に書いたところで体調不良になり、今大晦日
結果的だけ言うと、しんどい母から逃げる!!を読んで、夫に手伝ってもらいある行動を起こし、正月には帰らない、というかしばらく母から遠ざかる宣言をしました。向こうがどう思っているかは不明だけど今のところ少し晴れやかな気持ちにはなっている。
とにかくここのところずっと腹は猛烈に下っているし気持ち悪いし眠りは浅いし4時頃には目が覚めるしなにより最悪な気分だったのだ。ご飯はおいしく食べれているのが救い。
今まで生きてきた中で一番年末年始感がない。けれどたまにはそんなときがあってもよいのではないかと思う。つづく。

正月実家に帰りたくない①

完っ全に世間が年末モードになってここ数日、正月に実家に帰るのが嫌すぎて軽い鬱状態になっていた。

今月初頭実家へ荷物を取りに帰った際、ひと悶着あったのだ。
帰り際「正月に帰ってくるでしょ?」と母が言ってきた。その少し前に飼い犬の立ち入り禁止を言われていたため「顔を見せるだけになるかも」と答えたら、「いつまでも嫌なことから逃げるな」「あなたがそういう態度ならこちらもそれなりの扱いになる」「こっちはいつまでも娘だと思っている(と言いながら涙ぐむ)」ということがあってな。なんで泣くのか意味不明じゃない?

とは今思っても、私は母を目の前にするとダメなのだ。頭がまったく働かない。とにかくさっさとその場から立ち去りたいという思いに支配されて的確な対応をすることができないのである(ということに、後述の本を読んでいて気が付いた)。

そんなようなことがあって、クリニック初診のカウンセリング時に私が困りごととして多くの時間を割いたのは結果的に家族関係についてであった。例の一件がなかったら、もっと発達障害の可能性についてもっと相談していたかもしれない。余談だが、クリニックの初診は大量の問診票への記入、それを受けてのカウンセリング、謎のテスト(私にとって謎だっただけでクリニック独自ではなさそうなもの)、医師の診察と、本当にもりだくさんで今までかかったことのある病院とは違うところだらけだった(ただし、患者一人一人の状態に応じたそれなりの時間をかけるため待ち時間は恐ろしく長い)。

とにかく年末が近づくにつれ徐々に鬱々してきた私は、「正月 帰りたくない」などと入力してはそれっぽい記事を見て自分と同じような人がいることに対するちょっとした安堵で気を紛らわせていた。

ところで、なぜ母が「今年は当然正月実家に帰るでしょ」という言い方だったのかというと、我々の転居により居住地が近くなったからだ。将来的なこと(主に家)を考えて他県から地元(と言っても少し離れている)に戻ってきた。今まで私が毎年実家に帰らなかったのは物理的な問題、距離のためだと母は思っているらしい。そんなわけあるか。ひとえに実家が苦痛だからである。なんなら実家に行かず義実家だけなんていうのはしょっちゅうだ。

兄夫婦がいればなおさら居心地は悪い。去年だか一昨年だかに子供が生まれたのがダメ押しである。両親(というか特に母)は初孫なのもあり、もうとにかくちやほやする。兄夫婦は親バカだし自分大好き(両方とも全然悪いことではないしむしろそうなれるのが羨ましい)なので記念日には家族写真入りのグッズを作ってそれをプレゼントしたりする。正直いらないし理解できないメンタリティだが楽しそうでいいわねえと思う。

私が結婚も子供も嫌だと思ったのは主に親を見ていてなのだが、そうでなくとも(だからこそ?)そもそも私は昔から子供があまり好きではない。血の繋がりの有無に関わらず、ほぼかわいいと思わない。動物としては造作等興味深いがただそれだけであり「はい〇〇ちゃん、叔母ちゃんでしゅよ~」などと兄が赤ちゃん言葉で子供に話しかけられてもとてもその茶番には付き合えない。だが兄は高確率でその茶番を吹っかけてくるし、それに乗らない私に母親は厭らしい視線を送ってくる。間違いない。

そこで心の頼みの綱が飼い犬なのだが、実家で飼い始めたビビり犬のせいで我が家の犬(に限らずどの犬も、らしいが)は立ち入り禁止になってしまった。二年に一度くらいは正月に帰ったような気もするが、それも犬がいてこそである。先代の実家犬は穏やかな性格でうちの犬とも仲良く遊んでいたのでまだ気楽に寄れた。中学生の頃には「結婚しないし子供も産まない」宣言をしていた私にとって、犬はもはや家族である。実家でもそうだったはずだ。実際今ビビり犬を猫かわいがりしているではないか。

にも拘らず、実家ビビり犬のためだけに「犬は家に置いてこい」「留守番できないならホテルにでも預けてこい(うちには4ヶ月の子犬がいる)」「犬の扱いが人間と違うのは常識」という論理で実家犬禁止令(ただしビビり犬は除く)が施行されたのである。母の独断により。

なぜ家族というプライベートな空間に常識とやらを持ち込んでくるのか理解不能だ。と今なら思える。しかし、繰り返しになるが私の頭はまったく回らず「それはおかしい」と思っていても何がおかしいのかもわからず、「たしかに常識的には犬は犬…」とただもやもやするだけなのだ。

書き始めたら予想以上に長くなってしまった。次へつづく

困っていること

先日、2度目の受診をしてきた。
私はとりあえず多動がなく不注意が多いタイプらしい。
その傾向が顕著ということで、医師から薬を飲んではどうかと勧められた。

その時思ったのは、薬はいやだ、ということである。また精神系の薬を飲むのかと思ってしまった。露骨に嫌な顔をしたかもしれない。以前精神科の薬を飲んでいた時に副作用がしんどかったり、飲み忘れの離脱症状がエグかったりしたので抵抗があるのだ。しかも正直、薬を飲むほど不注意には困っていない(と思っている)。

結局もう少し検査をしてみてから服薬を検討ということになった。

今困っているのは、就職に関することと家族との関係である。
それに比べたら家事ができないことなど些末なことだ。そうではないのかもしれないが。
就職に関しては、とにかく診断が必要で、たがそれにはどうしても時間がかかる。あと金もかかる。残高的には早く働きたいが働くこと自体に悪いイメージが付きすぎているし何回も失敗しているのでもう楽にしてくれという気持ちもある。積極的に死にたくはないが生きているのが面倒だ。あいかわず腹は下ってるし中途覚醒するし朝早くから目だけは開くが、これは鬱状態なのか?診断が下りる前に医師が薬を、と言ったのはこれのせいか?

でも生きたくてしょうがなくて生きてる人って稀有じゃないの

家族との関係は、主に母親との関係だ。常に正論と常識でぶん殴ってくる過保護で過干渉な母親である。私の自己肯定感がとにかく低い原因の大部分は母親なのではないか。

そもそも家族運みたいなものがないのではと思っている。

母方の祖母は私が生まれる前に亡くなった。母は「うちは癌の家系だから。おばあちゃん(自分の母)もきっと胃がんだった」「もうすぐおばあちゃんが死んだ年になる」と子供の私によく言っていたが、相変わらずピンピンしている。
祖父は私が10歳頃脳梗塞で倒れた。入退院や再発を繰り返し最期の20年ほどは病院のベッドですごした。その間に髪は抜け歯はなくなり誰の事もわからなくなった。祖父との思い出は数えるほどしかない。祖父が借家に遊びに来て一緒に夕食を食べたとき、ホットプレートの縁で腕を火傷をしたこと。花火を見に行った時寝てしまった私を負ぶって帰ってくれたこと。本当は途中から起きていたが、寝たふりをしていた。火傷が4歳頃、花火が7歳頃である。祖父は数年前に亡くなったが、長年の寝たきり生活で小さくなった身体は折れ曲がり、うまく棺桶に納めるのが大変だった。

父方の方はつい最近まで双方とも健在だったが、母方の祖父が亡くなった次の年、以前から癌を患っていた祖父が他界した。この祖父がなかなか難がある人だったようだ。祖父と母の折り合いが悪かったらしく(この辺りは詳しく聞いたことがないので詳細は不明)、父は本家の長男という立場でありながら家を出ている。ただし、近所に土地を買って家を建てた。車で行くならばスープが冷めないくらいの距離である。父方の正月は異様なものだった。挨拶はするが誰も話さない。テレビを見ながら黙って出されたものを食べる。食後の時間が最も苦痛だった。早く帰りたくて時計をちらちら見ていると母が父を小突き、父の口から「じゃあそろそろ…」と言って帰るのが毎年変わらぬ行事だった。
祖父が他界してから私は父の実家によりつくようになった。と言っても、当時は他県に住んでいたので頻繁にとはいかなかったが。祖母は優しい人で、苦労も多かったのだろうにとにかく穏やかだ。30も後半になって初めて、“おばあちゃん”と普通に接することができるようになった。一人の人間がいなくなるだけでこんなにも様変わりするものなのだと思った。

もう10年以上前、母方の祖父の痴呆がまだそれほど進んでいなかったころ危篤状態に陥ったことがあった。その時私は祖父の手を握って「死なないで」と泣きながら言った。その後持ち直して一命はとりとめたが結局寝たきりのままで胃瘻になり植物のようになり死んでいった。あの時の「死なないで」は本当に身勝手な願望だった。
数年前、父方の祖父も同じように危篤状態になった。父方の祖父は年齢からしても大往生だし癌の告知を受けてから数年、死ぬ1か月前までは畑に行っていた。病名は大業であれ、ピンコロの部類だろう。で、その死を意識した私は、このずっとよくわからない怖さのようなものを感じていた祖父の手を握って涙したのである。知っている人が死ぬ、という事実だけで生きろと思ってしまうのだろうか。

生きろ、とは時には傲慢な願望だろうといつも思っているのに。

今思うと、父方の祖父と祖母の関係は、私の母と父の関係に似ているかもしれない。

会話の中で気づいたことメモ

全体もしくは大部分が見えていないと物を識別しにくい私にとって、片付けはネガティブな行為と位置付けられているのかもしれない。ただ、片付け(収納)をした方が掃除をしやすいことは確かである。

私の家族には対話がなかった。対話していないのはわたしだけで、他の家族はしていた(る)可能性もある。が、そのように思えなかったし今も思えない。

多分、植え付けられた抑圧の中でずっと生きてきた。今死にたいとは思わないけど、あの時死んでしまっていた方がよかったなとは思う。

私が(遺伝的に獲得した能力で)苦も無くできていることは他の誰かが望んでもできなかったこと、という理論、言いたいことはまあわかるが、それって餓死している貧困国の子のことを思えば食べ物を粗末にできないとかいうただ確率の問題なのではと思ってしまう。