恥の多い人生の只中 仄暗い道を往く

自分を見つめると死にそうになるが、逸らし続けても死にそうな気配がしたので

困っていること

先日、2度目の受診をしてきた。
私はとりあえず多動がなく不注意が多いタイプらしい。
その傾向が顕著ということで、医師から薬を飲んではどうかと勧められた。

その時思ったのは、薬はいやだ、ということである。また精神系の薬を飲むのかと思ってしまった。露骨に嫌な顔をしたかもしれない。以前精神科の薬を飲んでいた時に副作用がしんどかったり、飲み忘れの離脱症状がエグかったりしたので抵抗があるのだ。しかも正直、薬を飲むほど不注意には困っていない(と思っている)。

結局もう少し検査をしてみてから服薬を検討ということになった。

今困っているのは、就職に関することと家族との関係である。
それに比べたら家事ができないことなど些末なことだ。そうではないのかもしれないが。
就職に関しては、とにかく診断が必要で、たがそれにはどうしても時間がかかる。あと金もかかる。残高的には早く働きたいが働くこと自体に悪いイメージが付きすぎているし何回も失敗しているのでもう楽にしてくれという気持ちもある。積極的に死にたくはないが生きているのが面倒だ。あいかわず腹は下ってるし中途覚醒するし朝早くから目だけは開くが、これは鬱状態なのか?診断が下りる前に医師が薬を、と言ったのはこれのせいか?

でも生きたくてしょうがなくて生きてる人って稀有じゃないの

家族との関係は、主に母親との関係だ。常に正論と常識でぶん殴ってくる過保護で過干渉な母親である。私の自己肯定感がとにかく低い原因の大部分は母親なのではないか。

そもそも家族運みたいなものがないのではと思っている。

母方の祖母は私が生まれる前に亡くなった。母は「うちは癌の家系だから。おばあちゃん(自分の母)もきっと胃がんだった」「もうすぐおばあちゃんが死んだ年になる」と子供の私によく言っていたが、相変わらずピンピンしている。
祖父は私が10歳頃脳梗塞で倒れた。入退院や再発を繰り返し最期の20年ほどは病院のベッドですごした。その間に髪は抜け歯はなくなり誰の事もわからなくなった。祖父との思い出は数えるほどしかない。祖父が借家に遊びに来て一緒に夕食を食べたとき、ホットプレートの縁で腕を火傷をしたこと。花火を見に行った時寝てしまった私を負ぶって帰ってくれたこと。本当は途中から起きていたが、寝たふりをしていた。火傷が4歳頃、花火が7歳頃である。祖父は数年前に亡くなったが、長年の寝たきり生活で小さくなった身体は折れ曲がり、うまく棺桶に納めるのが大変だった。

父方の方はつい最近まで双方とも健在だったが、母方の祖父が亡くなった次の年、以前から癌を患っていた祖父が他界した。この祖父がなかなか難がある人だったようだ。祖父と母の折り合いが悪かったらしく(この辺りは詳しく聞いたことがないので詳細は不明)、父は本家の長男という立場でありながら家を出ている。ただし、近所に土地を買って家を建てた。車で行くならばスープが冷めないくらいの距離である。父方の正月は異様なものだった。挨拶はするが誰も話さない。テレビを見ながら黙って出されたものを食べる。食後の時間が最も苦痛だった。早く帰りたくて時計をちらちら見ていると母が父を小突き、父の口から「じゃあそろそろ…」と言って帰るのが毎年変わらぬ行事だった。
祖父が他界してから私は父の実家によりつくようになった。と言っても、当時は他県に住んでいたので頻繁にとはいかなかったが。祖母は優しい人で、苦労も多かったのだろうにとにかく穏やかだ。30も後半になって初めて、“おばあちゃん”と普通に接することができるようになった。一人の人間がいなくなるだけでこんなにも様変わりするものなのだと思った。

もう10年以上前、母方の祖父の痴呆がまだそれほど進んでいなかったころ危篤状態に陥ったことがあった。その時私は祖父の手を握って「死なないで」と泣きながら言った。その後持ち直して一命はとりとめたが結局寝たきりのままで胃瘻になり植物のようになり死んでいった。あの時の「死なないで」は本当に身勝手な願望だった。
数年前、父方の祖父も同じように危篤状態になった。父方の祖父は年齢からしても大往生だし癌の告知を受けてから数年、死ぬ1か月前までは畑に行っていた。病名は大業であれ、ピンコロの部類だろう。で、その死を意識した私は、このずっとよくわからない怖さのようなものを感じていた祖父の手を握って涙したのである。知っている人が死ぬ、という事実だけで生きろと思ってしまうのだろうか。

生きろ、とは時には傲慢な願望だろうといつも思っているのに。

今思うと、父方の祖父と祖母の関係は、私の母と父の関係に似ているかもしれない。