恥の多い人生の只中 仄暗い道を往く

自分を見つめると死にそうになるが、逸らし続けても死にそうな気配がしたので

雑感

また更新まで間が空いてしまった。日々いろいろなことをつらつら考えているのだけれど、とりとめもなさすぎて途中まで書いては止まり、止まってはぼんやりしを繰り返しているとこうなる。

そういえば昔、ブログを持っていた。
それは日々の出来事や思ったこと、見た映画の感想や疑問に思ったことを調べてまとめたものなど、とにかくありとあらゆる頭の中を文字に書きだしたようなブログだった。
昔から私には専門性がない。
元々文章を書くのは好きで、いつもなにかしらとめどなく考え事(と言ってもたいていたいしたことではない)をしているためネタに困るということはなかった。
が、段々と自分の存在が相対的に小さく感じられるにしたがって、この文章を公開することは何の意味があるのだろう。ネットデブリを量産しているだけではないか。などと思うようになっていった。

自分の存在が小さくなったと感じられた原因はいろいろ考えられる。多くの人に訪れる、成長とともに若いころ特有の全能感が一枚一枚剥がされていく等の変化はもちろん、一番大きかったのは、世の中にはそこここになんらかのすごい人がいることがわかったことだった。それはインターネットが普及したタイミングというよりは、SNSの普及により匿名でない個人があらゆるメディアを絡め発信できるようになったことで一気に可視化されたように思う。

自分に専門性がないということがかなりコンプレックスであるようだ。何事においても積み重ねができない。断絶の連続である。
だらだら続けていたブログも、鬱になって自我が肥大したような状態になってもしばらく続けていたが、その連続状態が嫌である日全部削除してしまった。正直このあたりもよく覚えていない。
それからは転居したりして報告がてら他人(友人)の目を気にした当たり障りのない内容のものを作ったことはあったが、あまりに変化のない日々に書くこと(書けること)がなくなり閉塞感も相まってぱったり更新しなくなり、好きで書いていた手紙もまったく書けなくなってしまった。

今回自分がこのような状況になり思い出したのが、昔最高潮に鬱だった時のことである。最高潮の鬱だとほぼ廃人なので、そこからの回復期と言った方がいいかもしれない。
鬱から回復を遂げた人のブログを探し回った時期があった。鬱でもまた元通り(ほんとうに漠然としている観念)になれるという希望を求め、また、その道筋を知りたかったのだと思う。なにせ病院に行っても薬が出るだけなのだ。ざっくりした回復のイメージは医師から聞いたものの、では具体的にどうなるのかというのがよくわからない。もっとこちらから問いかければなにか答えてもらえたのかもしれないが、鬱状態の人間にそれはなかなか難しいのである。

今ならそのあたりにメンタル系情報発信サイト等はたくさんあるが、それを探すのが20年前はなかなか至難の業だった。当時ジオシティーズからブログへという流れもあり、HTMLがわからなくてもそれなりに発信できるようになりつつあったのではないかと思う。しかし、病み真っ最中のものはヒットするものの、自分の状態や病気への理解、回復への道筋を示すようなものはごく少数だったし、たまに見つけたとしてもある日を境に更新が途絶えているなどザラだった。苦しいつらい死にたい系のブログの乱立は今よりも精神科系疾病への偏見は強く、ただネットだけが心にたまったものを吐き出せる場所だったから、というのもあるのかもしれない。SNSのようなゆるいつながりもほぼなかったろうし。

そう考えるといい時代になったと思うが、どうせなら日々の生活(人間関係や経済活動)の中でそれを実感したいものだと思う。